
2026年10月、ボーカロイド(ボカロ)界隈を揺るがす大きな騒動が発生した。
長年にわたりバーチャルシンガー「KAITO」をメインボーカルに据え、情緒的な名曲を紡ぎ続けてきた老舗ボカロPの「まえぴー」氏が、ニコニコ動画における自身のKAITO楽曲およびボカロ楽曲をすべて非公開にし、十数年の活動に事実上の幕を閉じた。
純粋に音楽を愛してきたクリエイターが、なぜこれほど突飛で悲しい自衛手段を選ばざるを得なかったのか。その背景には、芸能界とネット文化の衝突、そしてSNS上で激化したファン同士の泥沼の対立があった。
発端は、King & Princeの高橋海人さんが「KAITO」名義でソロ音楽活動を始動したことだった。幼少期の活動名や本名に由来する自然な名義選定ではあったものの、大手芸能事務所やマスメディア、そして膨大なファンが一斉に「#KAITO」のハッシュタグを使い始めたことで事態は急変する。
20年以上の歴史を持つボカロの「KAITO」に関する検索結果や過去の楽曲情報が、高橋さんの新譜情報によって完全に埋め尽くされる「検索汚染」が発生した。
このプラットフォーム上の環境変化にボカロ界隈が動揺する中、SNS上では過激な言葉の応酬が始まってしまう。「歴史を潰された」と憤るボカロファン側の一部が攻撃的な言葉を放てば、高橋さんを擁護するファン側の一部もボカロ文化を軽視するような発言で応酬。さらに、どちらのファンでもない外野が面白半分に煽り立てるなど、騒動は手がつけられないほど泥沼化した。
この直後、まえぴー氏は全曲非公開を決断する。氏はSNS上で「活動規模の大小と今回の判断は関係ない。誰かと比較したり、価値の大小を競ったりする話ではない」と重ねて発信した。
長年KAITOを愛してきたクリエイターにとって、自分の愛する存在や作品が、相手を攻撃するための「武器」や「勝ち負けの道具」として消費されていく状況は耐え難いものだったのだろう。
双方のファンによる苛烈な対立構造に巻き込まれ、精神的に疲弊した末の「自衛」であり、ファンへの「十数年の御愛顧ありがとうございました」という感謝を込めた幕引きだった。
文化の衝突が避けられない時代、プラットフォームの運用の難しさと、過激化した言葉が純粋な表現者をいかに傷つけ、追い詰めてしまうかを浮き彫りにした極めて痛烈な事件と言えるのではないだろうか。
(文/中野慎二郎)
~ライター略歴~
東京都中野区出身
演劇&音楽を愛しアーティスト活動を20年に渡り行うも鳴かず飛ばず
2017年より自身の経験と人脈ををもとにフリーライターとして活動