8日に『三浦春馬「消費者・株主それぞれの立場で」商品に例えた投稿が物議』というタイトルで記事を掲載させていただいたところ、モノに例えるな、失ったのはモノではないという旨のご指摘を一部受けた。
故人を冒涜するような意図は一切なく、伝わらないファンの思いを分かりやすく説明できればとの考えでご紹介させていただいたのだが、ご不快な思いをされた方へはお詫び申し上げたい。
そのうえで、あらためて説明を求める感覚について私見ではあるがお伝えしたい。
「寛容な心」を持つことが重要では
モノであったとしても失ったときに説明を求めるのだから、人であればなおさら説明を求めると考える人は一定数いるだろう。
そのような方々は、家族同然というほど身近に感じている存在を失ったのであれば、より一層説明を求めるのではないだろうか。
無論、ごく身近な人を亡くした場合でも、できるだけ生前の故人の姿を思い出さずに過ごす人もいれば、何か生きているうちにできたことがあったのではないかとずっと考え続ける人もいる。
どちらが正解ということではなく、それぞれ違う個性、感性を持つことを尊重し合える、「寛容な心」を持つことが重要ではないだろうか。
アミューズは長年に渡り、三浦さんをマネジメントし共に歩んできたわけで、三浦さんの「同居する家族」と表現することができるだろう。
一方で、三浦さんを長年応援してきたファンもまた家族と言えるのではないだろうか。ここでは「離れて暮らす家族」と表現させていただく。
互いに家族を失った心痛があることを十分に認識したうえで、より多くの生前の姿を知っているであろう「同居する家族」に対し「離れて暮らす家族」が、亡くなる前の様子はどうだったのか、どんな距離感でどう接していたのかを聞くことはあるだろう。
それが「尋問」のようになれば、当然聞かれた側は良い気がしないだろう。だから、聞き方は繊細かつ丁寧でなければいけないとは思う。
逆に、十分に配慮をしながらであれば、聞いてはいけないということはないだろうし、聞くことで故人を偲び、家族を失った悲しみを埋めようとしたり、共有しようとしたりする行為は多くの人がすることではないだろうか。
亡くなるまでのいきさつを聞いてきた「離れて暮らす家族」のことを無視し続けていれば、「同居する家族」に対しなぜ何も言ってくれないのだろう、答えてくれないのだろうと疑問を抱えることになる。ともすれば、あらぬ憶測につながることもあるかもしれない。
「同居する家族」の辛い気持ちや大変な状況にできるだけ配慮はしつつも、「離れて暮らす家族」が聞いたことにも答えてほしい、すぐに答えられないのであれば、せめて「今すぐは答えられないけど、1ヶ月くらいを目安でもう少し落ち着いたら話すね」などの言葉はほしいと思っている。
これが、説明を求めるファンとアミューズの間の現状の関係性ではないだろうか。
(文/窪田翔吾)